Last modified at 2002/12/22 01:57 
間違いを見つけた有識者のみなさま、こちらまで御一報いただければ幸いです。

花のなさけ

凡例
【原文】
  1. 梓弓はるの日かげのまだ短かヽりければ。暮れぬさきにと手ぐるまを。箭よりも早く馳せつヽ帰りにけれど。三めぐりあたりにて日はとく沈み。川波遠く霞みて。富士の雪筑波の雲も見にわかぬほどになりけり。
  2. 柴のとぼそ推しあけて入りみれば。庭の梅のあるじ侍顔にて。何となく薫りのゆかしきまヽ。夕月夜にすかし見るに。昨日はまだ堅かりし蕾の二つ三つ綻びそめしぞ、いと憐れふかし。
  3. 去年の春は霜雪のとけやらぬ比より。ひとやに繋かれ。花の頃もむなしく過ぎ侍りにたれば。せめてことしは花の下に起きふしせんなど。独りこちつヽ。こヽかしこ見めぐるうちに。夢ともなりうつつとも無く。独りの女花の木のまより出て来にけり。
  4. あまりの事に胸とヾろきぬれど。さあらぬけしきして、御身は誰そと尋ぬれば。女ほヽ笑みて。問ふも愚かや、妾は君が家近く住む賤の女にて侍る。君が今宵いと物思はしげなるさまをかいまみしより。物語りしてみこヽろをなぐさめばやと思ひて来たりしなりと云ふ。
  5. 我が物思ひしつるはよそ事にも候はず。日ごとに営む業のいとま無ければ。我が宿の花見るさへもかなはぬをかこち侍りしなりと答ふれば。女云ふ様。
  6. さな言ひ給ひそ。みやびの道は忙はしき業の中にこそ候べけれ。昔し白川少将の君は、日野大納言に言の葉の道学ばれたりき。ひととせ大納言東に下り給ふ時。少将其かりの宿に参りて申さるヽやう。
  7. やつがれ年比敷島の道に心よせ侍りぬれど。此の三とせあまり公の政を身にひきうけぬれば。文かき歌よむいとまの有らぬは。いとヽヽ口惜しく思へど。いかにとも為す可きやうも候はずと。
  8. 其の折大納言は少将の顔つくづくうちまもり。こは仰せとも覚えず。我が身の勤む可きことつとむるが。まさしく敷島の道にて候ぞや。
  9. 唯ふみかき歌よむばかりを大和こヽろとは得申し侍らずと申されければ。少将深く恥ぢ。かついたく喜び給ひしとかや。
  10. いま君が暇なき身の花見ることもかなはぬを嘆き給へど。筆の林にはなどか梅桜にまさる花の無かるべきやと言ひすてヽ。いづちゆきけん影だに見えず。
  11. 朧なる月の梅が枝に宿りしかげのみ残りたり。見し人は日比めでいつくしみたる梅の木精にてもあるらん。
  12. いと怪しかりけり。
  13.  をた巻のいとまなき身は人しらぬ
  14.    月の夜なヽヽ花をこそ見め
【口語】
  1. 春の日影はまだ短いので、日が暮れないうちにと、車を矢よりも早く走らせ帰ったのだが、三囲神社あたりで日はどっぷりと沈み、川波は遠くまで霞んで、富士の雪と筑波の雲も見分けられないほどになった。
  2. さて、柴の戸を開けて家に入った庭の梅の主人は、いかめしい侍顔をして、ただ美しさに惹かれるまま、夕月を夜の梅に透かし見ていると、昨日はまだ堅かった蕾が二つ三つ綻び始めていて、それはそれは深くしみじみとさせる景色だった。
  3. 去年の春はまだ霜や雪が溶けないうちに監獄へ繋がれて、そのまま花の咲く頃もむなしく過ぎ去ってしまったので、せめて今年は花とともに寝起きしたいものだ、と独り言を呟きながら、あちこちと見回っているうちに、夢かうつつか、一人の女が梅の木々の間から出て来た。
  4. あまりのことに胸がどきどきしたが、そんな様子は表に出さず、「そなたは誰か」と尋ねたところ、女は微笑んで、「問うまでもありません、私は君が家近く住む賤の女でございます。今宵、あなたがたいそう物思わしげな御様子でおられるのをかいま見たので、物語をお聞かせして御心を慰めようと思って来た次第です」と言う。
  5. 「私が憂いているのは他人事ではありません。日々仕事ばかりで暇がないので、自分の家の花を見ることさえもかなわないのを嘆いていたのです」と答えたところ、女はこう言った。
  6. 「そう仰ってはいけません。雅の道はせわしい仕事の中にこそあるのです。昔、白川少将は、日野大納言に和歌の道を学ばれました。ある年、大納言が東に下られた時、少将はその仮の宿に参ってこう申されました。
  7. 『不肖、ずっと和歌の道に心をよせておりましたが、この三年あまり公職を引き受けきたため、文を書き歌を詠む暇がないのは、非常に残念に思うのですが、どうにも仕方ありません』。
  8. その折、大納言は少将の顔をまじまじと見つめて、『これは貴方の言葉とも思えません。自分の勤めるべきことを勤めるのが、まさしく和歌の道ではありませんか。
  9. ただ文を書き歌を詠むだけを大和こころだと言うことはできません』と申されると、少将は深く恥じ。かつ、いたくお喜びになられたのだそうです。
  10. いまあなたが、暇がないので花を見ることもかなわないとお嘆きになられておりますが、筆の林にも必ず梅桜にまさる花があるはずです」と言い捨てて、どこへ行ったのか、その影すら見えない。
  11. 朧ろ月に照らされた梅の枝の影だけが残っている。私の見た女は、私が日々愛でていた梅の木の精であったのだろうか。
  12. 実に不思議な出来事であった。
  13.  暇のない身を人は知らない
  14.    月の夜はいつも花を見たい
【メモ】

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