今年の目的地は・・・
初の無人島!由利島だ

由利島のマメ知識

二神島の南約12qにあり、周囲約5q。島の東部を大由利、西部を小由利といい、2つの島が潮流によって繋がれた陸繋島。
昔から採草地・漁業基地として好条件を有していたが、弘安年中(1278-88〉の頃に津波などの害があって以来無人島化し、 
草刈り場として利用されていたようである。江戸初期よりイワシ漁の適地として、紀州塩津村は二神村へ入漁料を払って漁を 
していたが、二神・長師や越智郡岩城・安芸国瀬戸からも参加したため、寛文6年(1666〉以来度々争論が発生した。     
寛文9年(1669〉長師村杉野五右衛門・二神村源三郎と安芸国瀬戸町加藤大兵衛との闇に鰯漁に関する議定書がとリ変わさ
れ、干イワシの値段は3人の相談で決定することとなった。松山藩においても運上銀の収納や苫の上納場所でもあったので強
く関心をいだいていたようである。格好の稼ぎ場としての由利島は地元二神村の人々にそのまま継がれ、明治・大正・昭和の
時世まで続いた。昭和初期はイワシ網全盛期で、浜に10基を超す釜場が設けられた。漁の不振や若者の流出に伴い、昭和
35年(1960)頃まで続けられた。現在ではまったく往時の面影はなく、みかんの出稼ぎ耕作も最近行われなくなった。    
「由利千軒ゆりこんだ」の言い伝えがあるように、今でも当時の繁栄を偲ばせるような「寺床」「長者屋敷」「お舟にもうし」など
の地名を残している。安永7年(1778)に記された「百合嶋録」の中に「・・・俗ニ右嶋今之大山之方ヲ小百合ト言、小山之方ヲ
大百合ト言、又由利千軒トテ往古ハ人家千軒有之候之由、至今ニテ申伝也事地震ニ崩タルヨシ」(二神文書)とあり、代々書き
継ぐべき事有り。「由利千軒」の言い伝えを物語っている。                                        

 

イワシ網漁が盛んであったころ二神島との連絡をとるため、二神漁協が昭和36年(1961〉に電話を敷いた。昭和61年(1986)に8本
電信電話公社が民間になったため使用度の低い赤電話(0899-99-0801)ということでその夏に撤去された。翌年の5月18日にピ
ンク電話(0899-99-0808〉として新しい電話ポックスと共に復活し、その費用は二神島の人たちが負担。その後・海底線が切断
されたのか不通となり、電話機は平成5年(1993)2月9日に撤去された、今は木製の電話ポックスだけが残っている。       

もどる