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 勤王流は八重山の地において比屋根安弼によって創始されました。勤王流の特徴は手振型「二十二の手」にあります。二十二の手は、始祖である比屋根安弼から二代目 諸見里秀思、三代目 渡慶次長智に伝承され、渡慶次長智から四代目の一人である細原清には伝書が手渡されたため、文献や写真は現在も残されています。しかしながら、それらは静体としての情報であり、残されている写真も、それぞれの「手」の最後の瞬間でしかなく、流動体としての手振型はこの時点で途切れてしまいます。
二代目 諸見里秀思 三代目 渡慶次長智 四代目 石垣寛吏
 四代目 石垣寛吏は、十余年の歳月をかけ、伝承された文献・写真に加え、三代目 渡慶次長智から伝授された踊り・言説を基に研究を重ね、「流動体としての手振型」の完成へと導きました。石垣寛吏の弟子には川井民枝ともう一人、嘉良ヒデがおりましたが、嘉良ヒデは教師免許披露公演を開催した後に亡くなられてしまいます。このようなことがあったため、石垣寛吏は川井民枝に身体だけは気を付けるようしばしば注意されたそうです。
流動体としての二十二の手を完成させた石垣寛吏
 手振型と云う字から、手の運びだけが定められているように見えますが、足の運び、身体全体の運動、扇の動き、全て一体となったものが手振型です。「手」の前後の舞にはバリエーションがあり、特に創作舞踊では即興的に変化することもありますが、「手」そのものにはバリエーションはありません。『石垣寛吏が完成した流動体としての二十二の手』は唯一、川井民枝が受け継ぎ、無錆之会及びその会員によって伝承されております。
勤王流八重山舞踊の系譜
※ 五代目以降は石垣寛吏の流れを汲む人を掲載しています
勤王流歴代の先生方
二代目 諸見里秀思(前列左端)
三代目 渡慶次長智
三代目 渡慶次長智(前列左から4番目)
四代目 石垣寛吏(4列目左端)
細原清(渡慶次長智の左側) 森田吉子(渡慶次長智の右側)
八重山舞踊 勤王流ゆかりの地 黒島
 勤王流の始祖、比屋根安弼は、琉球王朝時代に鳩間島に流刑となります。流刑となった後は、八重山の人々からの要望により各地で舞踊を教授しました。その後、同じ八重山の黒島を安住の地としたことから、「八重山舞踊 勤王流ゆかりの地」記念碑が黒島に建立されました。
 しかしこの祈念碑には勤王流の根本である「二十二の手」についての記載がありませんでした。このため石垣寛吏は自費で「二十二の手」の碑を中国に発注し、記念碑の横に設置しました。石垣寛吏がどれだけ二十二の手にこだわっていたかが分かる逸話でありましょう。
《 黒島に建立された記念碑 》
記念碑の右側には石垣寛吏が作製した「二十二の手」が刻まれた碑が置かれている

比屋根安弼はなぜ流刑になったのか
 比屋根安弼は若里之子の位を授けられ琉球王に仕えていましたが、三十代の頃、鳩間島に流刑となります。流刑になるようなどんな重罪を犯したのでしょうか。一説には守禮門の前で放歌高吟(ほうかこうぎん、意味は字の通り)した咎によるものと云われています。
 その他、安弼の才能を嫉んだもの、あるいは禁止されていた模合をしたから、という説もありますが、放歌高吟の咎、というのは勤王流を興した文人らしい腑に落ちる説ではないでしょうか。いずれにせよ、安弼の流刑によって勤王流八重山舞踊が興ったことは偶然の幸運と云えましょう。
《 夏の夕陽に照らされた首里城・守禮之門 》
比屋根安弼が放歌高吟した姿を想像すると愉快ではありませんか
 その後、流刑は赦免されますが、安弼は八重山に留まり首里には戻りませんでした。西表島、黒島に移り住み、島民に漢字や舞踊を教え、鍼灸や日和見(天気予報)も行い、1901年に黒島で六十六歳の人生を終えます。もう明治も三十四年になった年でした。比屋根安弼の写真や姿絵は残っていません。

勤王流八重山舞踊保存会  無錆之会  Website
Establishment  2017年(平成29年)4月1日
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