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 川井民枝は平成八年に最初の公演を行って以来、今日までに三十余の公演を行ってきました。公演では、師の教えを忠実に再現する古典舞踊に加え、川井民枝が創作した創作舞踊も演じてきたところです。以下は、それらの創作舞踊を、初演された公演順に纏めたものです。それぞれ、創作の背景や見どころなども記載しましたので、これからの公演で披露される際には、プログラムに記載されたものに併せ、参考にして頂ければ幸いです。
平成15年 第三回リサイタル 幽玄の世界に舞う
 詩舞(琉歌)
 詩吟、居合と舞踊のコラボレーション。詩吟〔琉歌〕をベースに居合の要素を取り入れ創作した舞踊です。舞台では詩吟が吟じられ、川井民枝は真剣(※)を帯刀して舞います。沖縄でも詩吟が盛んで、あちこちに詩吟道場があります。
(※)模擬刀です
 久高節
 その昔、沖縄本島の久高島からやって来た漁師達が八重山の女性をからかって遊び、おもしろおかしく歌を作って流行らせていました。当時、登野城の海岸では、漁師やマーラン舟の船員が帆で仮小屋を立て、そこに宿泊し、若者たちはその周辺に集まって、船乗り達と戯れていたと云われています。
 舞台では久高節に続いて海上節が舞われます。久高節が「主」とすると、海上節は「従」。この「従」の部分を舞踊の用語で「ちらし」と云います。
 海上節は、海が穏やかで彼ら船乗り達が無事に帰ってこられますように、と祈念する祈りの舞踊です。〔久高節〕も〔海上節〕も海を題材とする踊り、軽快なリズムで踊られるのが特徴です。
 鎮魂の舞  あかようらの祈り
 平和を祈る舞踊です。
 沖縄本島南端にある慰霊の施設、平和祈念公園で開催される祈りの祭典の打ち合わせに川井民枝が参加した帰り道、デイゴの木が並んで赤い花を咲かせていました。川井民枝はそれを見て一瞬、それらが血管のように見えたそうです。先の戦争では多くの命が失われ、道半ばで逝った口惜しさ、愛する人を失った無念さがこの地には残されています。
 川井民枝は盆に踊られる〔無蔵念佛節〕を舞うことにより、これらの情念を鎮めます。続いて、デイゴの花がいつまでも咲き続け、平和がいつまでも続きますようにと祈念して創作した舞踊を踊ります。「あかようら」は八重山の言葉でデイゴのことです。
 ふらぬ雨
 ふらぬ雨は、〔まふぇらつ〕、〔とぅすい〕という二つの舞踊から成っており、〔とぅすい〕はちらし(※)ですので普通は〔まふぇらつ〕に続き〔とぅすい〕が舞われるのが普通です。しかし川井民枝は、〔とぅすい〕を先に、そしてその後に〔まふぇらつ〕を踊ります。
【まふぇらつ】
 幼くして両親に死に別れた薄幸の少女 まふぇらつ の物語です。5才の時に父親と、そして7才の時に母親と死に別れたまふぇらつは、叔父、叔母の元に引き取られ育てられますが、親のいない悲しみ、苦しみは、まふぇらつの心を深く傷つけていきます。まふぇらつの悲しい情念を情感豊かに舞い上げます。
【とぅすい】
 とぅすいでは、まふぇらつが叔父叔母に虐められる状況が描かれます。まふぇらつは叔父や叔母から、山で薪をとってきなさい、井戸で水を汲みなさい、それが終わったら釜に火を起しなさい、と毎日過酷な労働を強いられます。
 父親がいればこんな辛い目には遭わなかったのに、母親がいればこんな粗末な服を着ることもなかったのに、という台詞が歌われ、少女の悲しさが込められた舞が踊られます。

 川井民枝の〔ふらぬ雨〕では〔とぅすい〕から舞われるのは冒頭に述べたとおりです。まず、まふぇらつの状況を観客の皆様に知ってもらい、そして彼女の悲しさを舞い上げたい、というのが川井民枝が〔とぅすい〕から先に舞う理由です。泣きたい気持ちを心の奥に押し殺すまふぇらつの悲しい気持ちが〔ふらぬ雨〕という題名に込められています。
(※)主となる舞踊に続いて舞われる従属的な舞踊
 万華鏡
 万華鏡は〔胡蝶の舞〕、〔ふるさとの優蝶〕そして〔天人花(てんにんか)〕という三つの舞踊から成っています。
 〔胡蝶の舞〕は、女性の可愛らしさ、華麗な仕草、それに妖艶さが表現されています。〔ふるさとの優蝶〕については、作詞をされた吉川安一先生が言葉を述べられており、それ以上の表現はありませんのでここに紹介したいと思います。
【吉川安一先生の言葉】
 ふるさとの優蝶が、詩・曲・舞踊の三位一体の総合的芸術として「幻影の世界に舞う」をテーマに勤王流八重山舞踊保存会 川井民枝 第三回リサイタルで初公開されることを光栄に存じます。本日、舞台で発表される「ふるさとの優蝶」は、芸術の縁あってか、八重山出身の三者が合作した歌と踊りです。
 「ふるさとの優蝶」の創作は、寄合英名氏が、沖縄・八重山地方の正月の凧揚げの付属品、伝統的民具であり子供の遊び玩具でもある「風弾、シャクシメ」を、沖縄美術展覧会に出品し入選したのがきっかけです。
 ふるさとの青空で優しく舞う「優蝶」に、青少年の心・頭・体が、豊かで健やかに成長することを託しました。また、現代社会に対応できる国際的な人間力を身に付けた人材づくりへの願いも込められております。更には、平和を愛し、生命を尊ぶ地球的社会づくりへの思いも表しました。
 舞踊では、女性の優しさが表現されております。「ふるさとの優蝶」を多くの人が歌い踊り、青少年の健全な育成を図るとともに、心の共有の財産にしていただければ幸甚です。
 続けて「天人花」を創作した川井民枝の話。
【天人花創作のきっかけ】
 八重山の山道で車を走らせていると、ふと山々の深い緑の合間に華麗なピンク色の花が咲いているのを見つけました。帰って図鑑で調べてみると、それが天人花であることが分かりました。山深く入る人がいなければ見られることもない花。天人花はそんなことにも気をとめず、薄紫がかった桃色の花をしっかりと咲かせ、良い香りを醸していました。その様子に女性の確固たる美しさを感じ、舞踊として創作したいと思ったのが〔天人花〕を作ったきっかけでした。
平成17年 第四回リサイタル 初代会主石垣寛吏師匠かじまやー記念公演 無錆
 
 人生を波に例えた舞踊です。
 荒れる波、静かな波、穏やかな波。それらを太鼓、横笛、胡弓、サキソフォンで表現しています。川井民枝が各楽器を演奏する先生にイマジネーションを伝え、後はそれらの先生が即興で演奏する曲に合わせて川井民枝が踊る一期一会の舞踊です。それぞれの先生方の演奏と川井民枝の踊りがマッチするかどうかの真剣勝負、川井民枝の創作舞踊の真骨頂です。
平成17年 川井民枝道場 第四回温習会 灯々無尽
 
 前回の〔波〕は那覇の公演で披露されましたが、今回は石垣です。演奏する先生方もイマジネーションも同じですが、そこは即興。同じ部分もありましたが、気分の起伏、あるいは「ノリ」で前回と異なる部分もありました。難しさの中に即興の面白さがあり、また川井民枝の変化自在な舞が楽しめる題目でもあります。
 越城
 〔越城(くいぐすく)〕は八重山古典民謡の中で一番難しい曲と云われています。川井民枝はこの難度の高い民謡の良さを失わないよう、舞踊は古典風に振り付けにしました。
 話の内容は、越城に美しい姉妹がいるよ、という内容です。歌詞の一語一語が長いことから、どのような所作で踊るかが問われる難しい舞踊です。
 崎山ユンタ、みなとーま
 「ユンタ」は当時の流行り歌で、三線などの伴奏なしに歌われてきたものですが、近年では三線をつけて歌われることも多くなりました。どちらも海人(うみんちゅう 漁師)が漁をしている様子を描いています。どこに魚がいるか手のひらを目の上にかざして眺めたり、舞台の上で実際に網を投げて魚を捕る仕草がユニークな舞踊です。
 〔崎山ユンタ〕と〔みなとーま〕は、後に〔久高節〕や〔新川大漁節〕など、漁を題材とする舞踊と合わさり、〔海人〕や〔潮風〕という舞踊に統合されてゆきます。
やぐじゃーま
 やくじゃーまは蟹の名前です。弱者が強者に憧れる、そんな人間の性(さが)を蟹の表情を借りて踊ります。“どうせなら小さなカニではなく大きなガザミになりたい”。このような歌詞と楽曲の面白さに惹かれ創作した舞踊です。
平成19年 勤王流八重山舞踊保存会 初代会主 石垣寛吏師匠追悼公演
 追悼の舞  師に捧ぐ(無蔵念佛節、念佛口説)
 亡き師、石垣寛吏先生を偲び、感謝を込めて踊るために創作された舞踊です。この公演では、〔師に捧ぐ(無蔵念佛節、念佛口節)〕に続き、石垣寛吏先生の生涯と業績がナレーションで語られ、師の兄弟弟子により、師が好きだった舞踊〔たらくじ〕が演じられました。
平成20年 勤王流八重山舞踊保存会 故 初代会主 石垣寛吏先生生誕百年記念公演
 神ぬ世ば給られ(鳩間ぬ島節、ちょうが節)
 五穀豊穣を祈念し、豊作を神様に感謝する純朴な島の人々の誇りを表現した舞踊です。 
平成23年 第三回 踊り清冽 八重山舞踊の清々しさ再発見
 東日本大震災  追悼の舞  無蔵念佛
 東日本大震災の地震・津波で命を落とされた多くの人の魂を鎮まりますよう祈念して舞われたものです。無蔵念佛はお盆の時期に舞われる舞踊であり、川井民枝は亡き人の供養のため、舞台で何回か無蔵念佛を踊っています。そしてその都度、偲ぶ人のことを思い、異なる舞になっています。
 仲筋ぬぬべーま
 仲筋(なかすじ)は竹富島の地名、ぬべーま は仲筋に住む若い女性の名です。ですからこの題名は「仲筋の(に住む)ぬべーば」が、現地読みで「仲筋ぬ、ぬべーば」に転じたものです。
 その昔、新城(あらぐすく 新城島)に住む役人が伴侶が欲しくなったため、仲筋の役人に誰か適当な人はいないかと言われたため、その役人は住んでいる村の長(おさ)によい娘がいないかと聞いたところ、ぬべーまというとても綺麗な女性がいることが分かりました。
 母親は自分の娘が差し出されることを大いに悲しみますが、役人の指示に逆らうことはできません。村の人々はぬべーまを差し出せば代わりに新城からパナリ焼(陶器)の水がめや麻布(チョマ)などが貰えるので異存はないのですが、愛する娘を他の島にやる母、そして長い間手塩にかけて育ててくれた母と別れなければならないぬべーまの悲しみはそれは深いものでした。
 舞台では、母と娘がそのような悲しい心情を舞い、娘が去った後には母が一人残り、さわり(※)である〔でんさー節〕が舞われます。その〔でんさー節〕の中で歌われる“許し給り、ぬべーま”という、娘に許しを請う母の嘆き、悲しさ、口惜しさとともに幕が閉じられていきます。
(※)主となる舞踊に続いて舞われる従属的な舞踊
平成23年 勤王流八重山舞踊保存会35周年記念公演
 奉納芸能  世願い、まるまぶんさん、安里屋ぬくやまー、独唱、潮風、
       じっちゃ、山入らば、黒島口節、いやり、巻き踊り、フィナーレ
 奉納舞踊として上記の一連の舞踊が続けて舞われます。この中で〔安里屋ぬくまやー〕、〔潮風(すーかじ)〕、〔山入らば〕及び〔いやり〕が、川井民枝による創作舞踊です。以下それらについて解説してゆきましょう。
【安里屋ぬくまやー】
 遅弾き、早弾き、ユンタ、の3つの曲相から成る楽曲に合わせて踊られる舞踊です。
 昔、安里屋の くやまー という可愛い娘がおりました。くまやーは役人から自分の女になるよう言われますが、本人は嫌でたまりません。舞台ではそうした悲しい物語が舞われます。
 琉球王朝時代、中央(琉球王府)から離島に赴任した役人は、現地で美しい娘を囲うことが多かったと云われています。そして彼女達は役人が中央に帰任するとそのまま捨てられてしまったそうです。中央に帰れば役人には妻が待っています。役人の子を身ごもり、父親がいなくなった子供を養わなければならない運命となる娘も多かったそうです。
【潮風】
 〔新川大漁節〕、〔崎山ユンタ〕、それに〔みなとーま〕とともに舞われます。〔崎山ユンタ〕と〔みなとーま〕は前段で解説しましたので、ここでは〔新川大漁節〕について解説しましょう。新川大漁節は、新川の漁師が鰹漁に出て、大漁となって帰って来る様子・仕草が舞踊に取り込まれています。その様子は“一番竿(ざお)に銀の鱗が飛び跳ねる”と歌われています。
【山入らば】
  最近は観光客が「海人(うみんちゅう)」と書かれたTシャツをお土産に買っていく姿が見られます。海人とは漁師のことで、最近では本土の人でも「うみんちゅう」という言葉を知っています。一方「畑人」という言葉はあまり知られておりません。「畑人」と書いて“はるんちゅう”と読み、字のとおり農作業をする人を指す、海人と対になる単語です。
 〔山入らば〕では、鎌や鍬、バーキ(竹でできたカゴやザル)、それに斧を持った踊り手が数人で農作業を、特有の仕草で踊ります。その仕草やリズムが〔山入らば〕の面白さです。
 〔山入らば〕は、この舞台では数人の踊り手が同じ所作で舞っていました。川井民枝は後にそれを改良し、それぞれの踊り手にそれぞれの農機具を持たせ、舞台では交互に踊るように変えました。題目も〔山入らば〕から〔畑人〕に改題しています。
【いやり(いやり節、トゥバラーマ節)】
 「いやり」とは伝言のことですが、伝言という単語を充てるのはあまりふさわしくないかもしれません。その昔、島々の交通手段はサバニやマーラン舟だけだった時代です。自分が思いを寄せる人に伝えて欲しい、そのような言葉には伝言よりはるかに重いものがあったことでしょう。
 川井民枝の舞台では、無実の罪で流刑になった口惜しさを、島に残した家族に“いやり”してくれ(伝えてくれ)という歌に乗って舞われます。勤王流の始祖、比屋根安弼は、沖縄本島から八重山に流刑になりました。川井民枝はそんな故事と重ね合わせてこの舞踊を創作しました。
(※)主となる舞踊に続いて舞われる従属的な舞踊
〜 〔いやり〕で歌われるトゥバラーマ 〜
作詞:川井民枝
(意約)
今夜の大きな月が私の姿を照らしている。
大きな月といえども私の心の中まで照らし、この悔しさを晴らすことはできうまい。
南風よ、私の苦しい胸の内を石垣島まで伝えておくれ。どうか届けておくれ。
〜 川井民枝の踊りの原点 〜
 川井民枝は上に紹介した〔新川大漁節〕が自分の踊りの原点であると述べています。
 川井民枝が白保中学二年生だったとき、三年生を送る送別会で披露する踊りを習いにクラスの仲間と、同じ白保に住む踊りの先生のところに通ったことがありました。その時に習ったのが〔新川大漁節〕でした。
 踊りの先生は金嶺秀と云う先生で、このとき先生が川井民枝に、「君は踊りが上手いね。将来踊りに携わるといいね。」と言ったそうです。こういった先生の言葉は子供の心に深く刻まれるものです。
 川井民枝が八重山舞踊と本気で対面するようになるのはかなり後のことですが、金嶺先生が言った言葉は小さな灯となり、石垣寛吏先生と出会うその時まで、川井民枝の心の奥底で、消えることなく点り続けたのでしょう。
 川井民枝(当時は赤嶺民枝)の父は半農半漁で家庭を支えていました。川井民枝はそんな父が海で漁をする姿、山で畑を耕し収穫する姿を見、その姿が心に焼き付いています。川井民枝が舞台の上で網を打ち、畑を耕す姿は、そんな父親の姿が見本となっているため、臨場感のある舞台になっているのです。
平成24年 第四回 踊り清冽 八重山舞踊の清々しさ再発見
獅子舞
 川井民枝の生まれ故郷、八重山は白保で演じられる獅子舞を題材にした創作舞踊です。
 舞台の四隅から4匹の獅子が現れ。コミカルな仕草で踊ります。その中央では「獅子扱い」が4匹の獅子を操ります。舞台では獅子がでんぐり返る仕草もあることから、獅子の役は若くて運動ができる人でなければなりません。川井民枝によりますと、八重山では舞台全体を使った舞踊が行われる傾向があり、〔獅子舞〕で4匹の獅子が舞台の四隅から登場するのも、そういった習わしを意識したものなんだそうです。
下原
 原典は教訓歌(沖縄に伝わる教育的な歌)で、ある男がよく働く賢い女房を捨て、あまり働かず賢くない女房を迎えたところ男の家は没落してしまい、その一方、男に捨てられた(よく働く賢い)元女房と結ばれた男の家は繁栄した、という内容の歌です。
 そのような教訓歌をベースに、舞台では、ある農民が武士に憧れ、カタガシラ(琉球の武士が結った髪形)が結えたらいいものだ、という立身出世に憧れた平民が登場し、コミカルな踊りを踊ります。
 下原は“しんぱ”と読み、地名だと思われます。後段ではちらし(※)として〔真山節〕が演じられます。真山に住んでいる かなぶさー という平民が、周りの人達から、嫁も彼女もいないのかとからかわれます。それに対しかなぶさーは、いやいや、あちらこちらに自分の子供がいる、と強情を張ります。滑稽な話が演じられます。
(※)主となる舞踊に続いて舞われる従属的な舞踊
扇の縁
 「扇の縁」と書いて“おうぎのえにし”と読むこの舞踊は、2曲から成る舞踊です。〔虹色のふるさと〕と〔八重山美童(やえやまみやらび)〕は、前出〔ふるさとの優蝶〕を作曲した寄合英明先生と、有名な〔芭蕉布〕を作詞した吉川安一先生によるものです。
 〔虹色のふるさと〕では、“空を飛び、海を越え、島を越え、着いた此処が夢の島、歌と踊りの八重山”と歌われるとおり、ふるさと八重山への望郷の気持ちが歌われ舞われます。歌の二番では“海空は虹の色”という歌詞が添えられ、歌の島、踊りの島々、八重山の芸術性称えられます。
 二曲目の〔八重山美童〕では情景がガラリと変わり、淡くもたくましい恋の思いが綴られます。“恋の花咲くうりずん(※1)の島で、生まれ育ったあなたと私”。さて、この「あなたと私」は誰なのでしょう。昔を思い起こしたものなのか、あるいは今も昔も変わらぬ若者達の恋の情景を歌ったものなのか。〔扇の縁〕を観る機会がありましたら客席から想像してみるのも一興です。そして“扇の縁、舞の道”と歌われる箇所が、この舞踊のハイライトと云えましょう。
 この〔八重山美童〕で面白いのは、曲の中に古典民謡が織り込まれているところです。沖縄の人にとっては(超)有名な〔鷲ぬ鳥節〕、〔古見ぬ浦節〕そして〔安里屋節〕のワンフレーズが、一番から三番にそれぞれ入れ込まれています。曲の中で“二人の絆で機を織る”という歌詞が出てきます。その様は、川井民枝の創作舞踊の縦糸に、古典民謡の横糸が織り込まれ、ミンサー織(※2)のような美しい模様が舞台の上で織り上げられることでしょう。
(※1)うりずん 寒い季節が終わり、大地と大気が潤い始める季節。およそ春分から梅雨入りまでの間。
(※2)ミンサー織 藍色に染めた綿で織られた八重山特産の織物。ミンサー柄が特徴。後述のコラムを参照してください。
うりずんの歌
 川井民枝の叔父にあたる仲宗根長一の曲に振り付けを行ったものです。
 川井民枝が仲宗根長一にこの曲の背景について尋ねたところ、仕事を終えて大きな岩が見える海辺で休んでいると、心地よい海風が吹いてきた。その様子を歌ったものだ、と云われたそうです。くば笠で踊られることが多い舞踊ですが、川井民枝はくば笠(くばがさ)の代わりにくば扇(くばおうじ)を用い、あっちに風を吹かせ、こっちにも風を吹かして舞い踊ります。
川良山
 川良山(かーらやま)は、石垣島、名蔵湾の近くにある山です。元の楽曲は労働歌で、石垣から川平(かびら)までの道の建設工事を題材にした歌です。「モッコ」で石を運んだり、「タコ」で地面を馴らしたりする様子が演じられます。
月ぬまぴろーま
 月が真昼のように明るく照らす様子が題名になっています。女性が分かれた男性と会いたくて居ても立ってもいられない様子が演じられる舞踊です。明るく照らされた海辺で、昔ここで好きな男性と遊んだ思い出が演じられ、波が引くと駆けだしてしまう仕草が舞われます。好きな男性ともう一度会えるよう月にお願いをしつつ幕が閉じられます。
 ちなみに波照間島は「ぱてぃろーま」で、発音が近い「まぴろーま」とは違いますのでご注意を。
平成25年 第五回 踊り清冽 八重山舞踊の清々しさ再発見
武の舞
 倭(やまと ※1)の剣舞と琉球の古武道のコラボレーション。舞台では宮城鷹夫先生の仕込み杖を用いた演武や空手をモチーフとした演武が行われ、対する川井民枝は日本刀(※2)で宮城先生に絡みます。
(※1)倭 琉球王朝時代の日本を沖縄の人は「倭(ヤマト、あるいはヤマトゥ)」と呼んだ。琉球処分によって琉球王朝が消滅し、日本に取り込まれた時代を「倭世(ヤマトゥユ)」、第二次世界大戦後アメリカ軍に占領された時代を「アメリカ世(アメリカユ)」と称す。現代でも、県外の人を「ヤマト」と呼ぶことは多く、複雑な気持ちが込められていることもある。ちなみに那覇港の北の港口は「倭口」、南の港口は「唐口」と海図に記載されている。
(※2)模擬刀です
平成26年 第六回 踊り清冽 八重山舞踊の清々しさ再発見
白保村(白保節、桃里節、ボスポー節、マジャンガー)
 川井民枝の故郷、白保村。その古(いにしへ)の情景を描いた舞踊です。白保村と書いて“さぶむら”と読みます。
 マジャンガーは大津波で被害を受けた村の人々を救った井戸で、マジャ(真謝)という役人が掘ったカー(井戸)ということで マジャンガー と云います。マジャンガーで水を汲む島の娘のなんと美しい髪よ、という内容の舞踊です。
 その昔、今のように映画やスマホなどの娯楽がなかった時代、本島からやって来た多数の芸人が八重山で、そして白保で芝居を打ちました。彼らはマジャンガーの面白さに惹かれ、それを〔馬山川〕という喜劇に仕立て直し、本島で上演したそうです。白保は昔も今も芸能の宝庫です。
けーらぬ巻き歌
 新垣重雄作詞、大工哲弘作曲の歌に川井民枝が振り付けを行った舞踊です。
 亡くなった親の代の歌を引き継ぎ、後世に伝えましょう。髪を振り乱し、力の限り踊りましょう。足腰が痛くなるまで皆で踊りましょう。といった内容の舞踊です。
平成28年 第八回 踊り清冽 八重山舞踊の清々しさ再発見
海人(魚釣さぁ、久高節、崎山ユンタ、みなとーま)
 〔魚釣りさぁ〕以外は解説済みですので、ここでは〔魚釣りさぁ〕の解説をします。
 男が朝早く起きて仲間と釣りに行こうとします。それを見た男の妻は、普段はなかなか起きもしないのに今日はどうしたことか、と旦那をからかいます。彼らは釣りをしましたが全く釣れません。妻になにを言われるか分からないと思った男は仲間に、陸(おか)で釣りをしよう(※)と言い出します。ちょっと間の抜けた面白いストーリーの舞踊です。
(※)魚屋で魚を買って帰ろう、という意です。
畑人(山入らば、くいちゃ踊り)
 〔山入らば〕は解説済みですので〔くいちゃ踊り〕について述べます。
 〔くいちゃ踊り〕は豊年満作を祈念する踊りで、軽快で心地よいメロディー。縁起もいいということでリクエストが多い題目です。しかし、〔山入らば〕から〔くいちゃ踊り〕に替わる場面で調子が変わるため、地謡は三線のキーを素早く変える必要があります。川井民枝は両者を切れ目なく踊りたいため、曲を弾きながら三線の調弦を行うという離れ業ができる人でなければ川井民枝が踊る〔畑人(はるんちゅうー)〕の地謡が務まらない、しかも観客にとても人気があるという特殊な演目です。
天空の舞
 海の茶屋、山の茶屋は海の景色が素晴らしいレストラン、いつも観光客で賑わっています。天空の茶屋はそれらの上、山の頂上に立つ茶屋で、普段は営業されていません。天空の舞は、この天空の茶屋で開催された舞台のために創作された舞踊です。前出、宮城鷹夫が作詞、作本宏菅の作曲による音曲がベースになっています。
 石垣寛吏先生から教えを授かった川井民枝が、八重山から沖縄本島に移り住み、天に近いここ天空の茶屋という舞台で舞うこととなったことに運命を感じ、そのような幸運に感謝するとともに、師を褒め称え、教えられた勤王流「二十二の手」をしっかりと守っていくという覚悟を表現する舞踊です。荘厳な前半の部に続き、軽快な色合いの「ちらし(※)」に引き継がれます。
 〔天空の舞〕の歌詞の中に“錆のねんぶどぅり(錆の無い踊り)”という部分があります。これは川井民枝率いる無錆之会の真髄であり、〔天空の舞〕は無錆之会を代表する舞踊である、と云えるでしょう。
(※)主となる舞踊に続いて舞われる従属的な舞踊
童神
 古謝美佐子が歌う〔童神(天の子守唄)〕(古謝美佐子作詞、佐原一哉作曲)は多くの人が耳にされたことでしょう、とても有名な歌です。天から授かった子供は神様、一生懸命育てましょう、という歌詞の気持ちをそのままに、舞台の上で川井民枝が演じます。
平成29年 創作八重山舞踊公演
ミーラスクぬ南ぬ風(無錆の舞)
 前出〔天空の舞〕の歌詞を、スーパーきじむなあボーカリスト本竹裕助さんによって八重山風にアレンジされたものです。曲と舞踊は〔天空の舞〕と同じですが、より洗練されたものとなり、副題として〔無錆の舞〕が添えられたとおり、ここでこの曲は無錆之会の主題舞踊として位置付けられました。以下にその歌詞を紹介しましょう。
ミーラスクぬ南ぬ風(無錆の舞)
作詞:宮城鷹夫、本竹裕助 作曲:本竹裕助
ミーラスク: 沖縄地方で考えられている理想郷、ニライカナイ
ニーファィユー: 八重山方言で「ありがとう」、“にーふぁーゆー”“みーふぁーゆー”とも云う
がなし: 敬称、“じゃなし”とも云う、“今は昔の首里天じゃなし(いまはむかしのすいてぃんじゃなし♪)”
於茂登嶽: 石垣島の山、於茂登岳、沖縄県で一番高い
かいしゃ: 美しゃ、八重山方言で美しい / 美らさ: ちゅらさ、沖縄方言で美しい
〜 創作舞踊の完成はいつ? 〜
 川井先生にお聞きしたところ、作品が完成するのは公演の当日か、早くて数日前だそうです。舞台ぎりぎりまで考え抜く(というか直前までなかなかピタッと決まらない?)んだそうです。ということで、以上紹介した作品の創作年月日は、公演が開催された日、あるいはその数日前、ということになります。
 それらの舞踊は以降の公演で改作され、他の舞踊、あるいは新たに作られた舞踊と連結されることもあります。〔天空の舞〕が〔無錆の舞〕に変化を遂げたのはその一例です。師の教え、八重山の伝統、海人・畑人の仕草、それに即興性、それらの融合が川井民枝の「ぶどぅり」の身上です。
心で舞えば 心に還える
 左の揮毫は西表信氏によるものです。
 川井先生にお聞きしたところ、心で舞えば、というよりも、心から舞わなければ観てくれている人の心に届かないよ、という戒めなのだそうです。
 無錆之会メンバーの合言葉のようなもので、ご自分の名刺にこの言葉を印刷されている方もいらっしゃいます。
 心で舞えば、心に還える
   すべての事に通じる言葉ですね

ミンサー織 と ミンサー柄
沖縄に来るとよくこんな柄を見かけませんか?
 その昔、八重山で男性から求婚された女性はそれを受け入れる印として左の柄が織られた細長い織物を渡したそうです。5つの■に4つの■ ⇒ 五つの四 ⇒ いつの世(も私のところに通ってください)という語呂合わせ。
 ちなみに■の上下の点線はムカデの足を表しており、足しげく通う、つまり「いつの世も私のところに足しげく通ってください」ということを意味するそうです。当時、まだ「通い婚」の習慣が残っていた時代です。
 通い婚の時代、若い女性が恋する男性に手渡したミンサー織。“二人の絆で機を織る”と歌われた〔八重山美童〕にピッタリの織物です。通い婚については解説しませんので興味のある方はネットで調べてくださいね。
 細長い綿の織物、綿狭織から転じたミンサー織。定番の帯のほか、バッグ、財布などがお土産品として売られていますし、日常でも「かりゆりウェアー」や箸袋、その他いろいろな所でこの柄が使用されています。
 左の写真は久茂地交差点から県庁前交差点に至る歩道、ミンサー柄に敷かれたタイルです。婚約前の二人がここを歩けば女性が結婚を承諾したことに・・・はなりませんのでちゃんとプロポーズしてくださいね。

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