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教育観


小学校英語における私の教育理念

渡 邉 寛 治

国際化が進展している日本ではあるが、その日本の中で英語で買い物をするわけでもない。では、なぜ小学校から英語教育を開始するのか。この教育課題は、そもそも今から30年以上も前に経済界・産業界より出された要望がきっかけである。その一つに、2004年3月の文科省主催の英語フォーラムでの基調講演で、IBM会長は、小学校段階から英語教育を開始し、その中から5%程度(約35万人)の英語力のある国際人が育つことを望んでいると述べている。天然資源の乏しい日本が国際社会で生き抜くためには、そのような人材が必要だということである。

しかしながら、全国民を英語の達人にする必要もない。この点については、これまで文科省も悩んできたはずである。なぜなら、義務教育としての基礎基本を身に付けることが他にもあるからである。また、公立の小学校にはさまざまな障害を抱えた配慮児童もいる。例えば、東京都のH公立小学校の某学年には、軽度も含めると約4割の特別支援児童がいる。したがって、教育の機会均等という考え方を重視し、小学校からの英語教育を全国の22000余の全小学校で行うとなれば、そのような児童への配慮も含めた全体目標と具体的な到達目標(評価規準)を設定し、さまざまな条件整備をした上で「小学校から始めてよかった」といえる教育をする必要がある。

では、そのような教育とは一体どのようなものであろうか。小学校段階から英語教育を始める意義とはなんだろうか。その答えは、小学校英語教育のこれまでの成果の中に見出すことができる。平成4年度から行ってきた小学校の英語活動(英語によるコミュニケーション活動)であるが、当初は上記の経済界の要望にも応えるための実験であった。しかし、その後の10数年間の成果のエッセンスは、英語のスキル習得や定着度合いではなく、「ALTと一緒に楽しく英語活動に取り組んだ子どもたちのほとんどは、外国人と臆することなくコミュニケーションをとることができるようになった。寡黙な子は活発に、発達障害児もお気に入りのALTと口を利くようになった。」ということであった。

私自身は、寡黙な子が活発に変容することはある程度予測していたが、無口タイプの発達障害児の変容振りを初めて見たときは我が目を疑った。なぜなら、そのような成果はほとんど予測していなかったからである(因みに、私はこれまでに5件遭遇。)。彼らがALTと口を利くシーンを見たとき、彼らの「生きる力」そのものを見た思いがした。この種の力は、文科省が初等中等レベルの国際教育で推進している @「自己決定・行動力」A「個の確立」B「共生」のはぐくみにも繋がるきっかけになるであろう。なぜなら、英語活動で積極的に自己発信できる子どもは他の授業でも積極的に取り組むようになったからである。したがって、英語のスキル習得を最終目標とする活動ではなく、「子ども達の心的発達に応じたトピックを尊重したカリキュラム」によるALTとのコミュニケーション活動では、子ども達の目は輝き、国際教育の目標や生きる力の教育のねらいを全うする結果に繋がることを認識しておく必要がある。各学校は、上記のことを配慮しながら、英語活動で「子どもが変わる!学校が変わる!」教育を推進することが大切である。